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【09.02.16】亀山最大の空襲 レンガ橋列車銃撃事件で新しい証言が・・・
新聞報道などで事務所に問い合わせが多数寄せられた
土曜日から花粉症が始まりました。
暖かくなったのはいいのですが、この時期は花粉に悩まされるのでつらい季節です。
さて昨日は亀山九条の会で、終戦直前の1945年8月2日に起きた阿野田町レンガ橋列車銃撃事件に絞った「戦争体験を語る会」があり、市内外から会場いっぱいの50人を超える人が参加し、様々な証言が出されました。
最初に坂代表からこの間、新聞報道などで事務所に問い合わせが多数寄せられたことや、その多くが「参加したいけれど足が悪いので行けない」といわれ、電話での対話となったことが報告されました。
会では、この事件を以前から調べている岩脇彰さん(三重県歴史教育者協議会のメンバーで西小学校教師)からこの事件が亀山で最大の空襲であったこと、多数の死傷者が出たのに名前のわかってる人がわずか2人しかいないことなど、この事件の概要の説明を受けた後、2人の方に証言をしていただきました。
1人は当時、国鉄(今のJR)亀山駅の機関庫に勤められ、この事件を目撃された中根薫さん、もう1人は当時、阿野田町の自宅で目撃された豊田実さんです。
慰霊碑を建てる取り組みを
詳しくは書けませんが、中根さんは、3機が飛来しそのうちの2機が「ねこ返り」をして鹿島橋の方から列車を銃撃し、駅の西にある機関庫の上で旋回して再び銃撃し、さらにもう1回銃撃して津の方へ飛び去ったこと、米軍機の操縦士の顔が見えるぐらい低空飛行だったこと、市として慰霊碑をつくるべきだということを語られました。
また豊田さんは、その日が兄の出征の日で近所の人たちが集まっていた時に、汽車が異常な警笛を鳴らした直後にバリバリと音がしてみんな逃げたこと、兄の見送りで駅に行った時に(鉄道)診療所で多くの怪我をした人を見たことやその死傷者の様子が大変怖かったことなどを語ってくれました。
その後、参加された方から発言をいただきましたが、新たに菰野町の人でなくなった方がいたことや四日市でも犠牲者いたことが明らかになりました。
また、当時学生で救護にあたった方の証言や自宅で目撃した何人もの方の証言もあり、少しずつ真実が明らかになってきました。
また、参加者の発言の中で首のない子どもをおんぶした母親の話がいくつか出され、放心状態だったなどの目撃証言も出され、戦争の悲惨さを改めて認識しました。
昨日の会を契機に今後もこうした聞き取りを続け、真実を明らかにし記録にまとめるとともに、参加者から出された慰霊碑を建てることにも取り組んでいかなければならないという思いを強くしました。
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